川崎正蔵が川崎築地造船所(東京)を開設(創業)。東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設
株式会社川崎造船所(神戸)を創立。松方幸次郎が初代社長に就任。
伊豫丸(川崎造船所第一番船)進水
乾ドック(神戸工場 第1ドック)完成。工場地(現・兵庫県神戸市)先の海面を埋め立てて乾ドックを築造することを計画し、1892(明治13)年に地盤調査に着手、着工から6年後の1902年、乾ドック完成
兵庫工場を開設。機関車、貨客車、さらに橋桁の製作を開始
わが国初の潜水艇を完成
民間造船所初の大型軍艦「淀」竣工
国産化第1号蒸気機関車完成
兵庫工場に飛行機科を設置
船舶部を分離して、川崎汽船(株)を設立
当社初の航空機(乙式一型偵察機)完成。陸軍最初の制式機となった乙式1型偵察機
東京市の永代橋を製作。1923(大正12)年の関東大震災で隅田川に架かる多くの橋が倒壊し、新しい橋に架け変えられました。清洲橋や白鬚橋、永代橋など、後に東京の名橋と評価された橋を製作
兵庫工場を分離して、川崎車輛を設立
「六甲号」自動車の製作販売を開始
満鉄「あじあ号」用パシナ形蒸気機関車を納入。当時世界の最新鋭機関車で、大連-新京(現・長春)間の超特急「あじあ号」を牽引
飛行機部門を分離して、川崎航空機工業(株)を設立
川崎重工業株式会社として社名変更
「飛燕」戦闘機の生産を開始。第2次世界大戦中、当社(川崎航空機工業)が製作した三式戦闘機「飛燕」は、太平洋戦争下の日本の軍用機中、唯一の水冷式戦闘機として開発
製鉄部門を分離して、川崎製鉄(株)を設立
ヘリコプタの製造を開始(ベル47D型)。日本の航空機産業は、1945年の終戦とともに壊滅し、1952年に対日講和条約が発効するまで航空機の生産は禁止
川崎重工業、川崎車輛、川崎航空機工業の合併。川崎重工業が川崎車輛と川崎航空機工業を吸収合併するという形で、3社の合併が実現
国産初の産業用ロボット「川崎ユニメート2000」誕生。川崎航空機工業が産業用ロボットを専門に開発しているアメリカのベンチャー企業ユニメーション社と1968年に技術導入契約を結んで国産化に着手
モーターサイクル「H1」を発売
モーターサイクル「Z1」を発売
汽車製造(株)を合併、川重冷熱サービス(株)を設立
ジェットスキーの販売を開始
米国でモーターサイクルの生産を開始
ガスタービン発電設備PU200を開発
BK117型ヘリコプタ初飛行
アメリカで鉄道車両生産開始
アメリカで建設機械生産開始
わが国初のLNG運搬船を引渡し
明石海峡大橋主塔工事を受注
英仏海峡海底鉄道トンネル掘削機、掘削に成功
東京湾アクアライン向け世界最大径シールド掘削機、掘削完了
北米唯一の鉄道車両の一貫製造を行う最新鋭の鉄道車両専用工場が完成
社内カンパニー制と執行役員制を導入
船舶部門が(株)川崎造船として分社独立
精機部門(油圧機器部門)が(株)カワサキプレシジョンマシナリとして分社独立
破砕機事業部門が(株)アーステクニカとして分社独立((株)神戸製鋼所との合弁)
台湾高速鉄道向け車両初出荷
プラント部門がカワサキプラントシステムズ(株)として分社独立
環境部門がカワサキ環境エンジニアリング(株)として分社独立
カワサキプラントシステムズ(株)とカワサキ環境エンジニアリング(株)が合併し、新たにカワサキプラントシステムズ(株)として発足
次期固定翼哨戒機(XP-1)試作1号機・次期輸送機(XC-2)試作1号機ロールアウト
(株)アーステクニカを完全子会社化
建設機械部門が(株)KCMとして分社独立
(株)川崎造船、カワサキプレシジョンマシナリ、カワサキプラントシステムズを再統合
シスメックス(株)と医療用ロボットの開発に向けたマーケティング会社(株)メディカロイドを設立
(株)KCMを日立建機グループに譲渡
米国工場で当社初となるボーイング社向け民間旅客機用貨物扉の製造ラインが完成
米国工場で当社初となるボーイング社向け民間旅客機用貨物扉が完成
水素航空機向け燃焼器開発着手
水素をエンジン燃料とした航空機の研究開発を始めると発表
鉄道車両部門が川崎車両(株)として分社独立
モーターサイクル&エンジン部門がカワサキモータース(株)として分社独立
水素流通を一元管理し、国内外の水素取引を支援するデジタル管理システム「水素プラットフォーム」の実証試験を開始。製造から利用までのサプライチェーン全体の水素の流通が追跡できるようになる。水素流通の見える化し実用化を目指す