中島知久平(元海軍機関大尉)によって群馬県新田郡尾島町(現太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とする。
富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、東京富士産業 4社が合併同意文書に調印
軍需から非軍需産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により富士重工業を設立。
ビーチ・エアクラフト社と「T-34 メンター」の製造ライセンス契約に調印
富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に富士重工業株式会社としてスタート
国産1号機を完成させ、防衛庁(現防衛省)への納入を開始
戦後初の国産ジェット機「T-1(練習機)(初鷹)」の開発に成功
軽乗用車「スバル・360」発売
第二次世界大戦後日本初のジェット機T-1練習機を開発し初飛行に成功する。
軽商用車「スバル・サンバー」発売
民間向け軽飛行機FA-200「エアロスバル」の初飛行に成功。翌1966年から販売を開始
アメリカ・ボーイング社とボーイング747の生産分担契約に結実
新世代旅客機ボーイング767の国際共同開発プロジェクトに参加
米国のロックウェル・インターナショナル社と双発ビジネス機FA-300の共同開発を開始
T-3練習機が初飛行。量産機が納入された。生産機数は50機。
T-5練習機が初飛行。主力であった固定翼機製造からベルエアクラフトとのライセンス契約によるヘリコプタ製造(UH-1とAH-1)へと製造の主軸を移してから固定翼機製造への積極的な参加をしていなかったが、固定翼機製造を中心とした製造体制を再び本格化しJIS-Q-9100制定にあたり中心的役割を果たした。
いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ(SIA)を設立して現地生産も開始
レガシィの発売
ボーイング777の1号機がロールアウト。「世界最大の双発旅客機」の開発・製造に参加し中央翼を分担する。
T-3改が初飛行。T-7練習機として制式採用された。
エアバスA380に参加。垂直尾翼前縁・翼端、フェアリングを分担する。
開発が決定したボーイング787の開発にも参加している(詳しくはYX共同開発を参照)。
MRJ(三菱リージョナルジェット)(現Mitsubishi SpaceJet)の設計のために技術者が出向していた。
防衛省は、木更津駐屯地に置かれる共通整備基盤で行うアメリカ海兵隊オスプレイの定期機体整備の整備企業に選定した。
防衛省は、陸上自衛隊のUH-1J/Hの後継となる次期多用途ヘリコプター(UH-X)としてベル 412ベースの案を選定した。
商号を「富士重工業株式会社」から「株式会社SUBARU」に変更することを臨時取締役会で決議
トヨタが出資比率を20.00%に増加させて持分法適用会社(=関連会社)となり、同時にスバルもトヨタの株を持ち合って連携を強化