博文館主大橋佐平、自社の書籍・雑誌を印刷するため、共同印刷の前身である博文館印刷工場を京橋区竹川町(現 銀座6丁目)に創設。
小石川区久堅町(現本社所在地)に移転し、合資会社博進社工場と改称。
博文館印刷所と改称。これを機に博文館印刷工場から脱皮。
博文館印刷所を株式会社に改組。
設立当時の共同印刷(1925 年)
博文館理事大橋光吉が創設した美術印刷中心の精美堂と合併して、共同印刷株式会社を設立。社長大橋光吉。総合印刷会社として大量生産体制を確立した。
民間印刷会社で初めて研究室を設けた。のちに、平凹版やタイプポジなどの画期的な技術が開発される。
本社工場が完成。紙の印刷だけでなく、布と金属の印刷も開始して「東洋一の印刷のデパート」と称されるにいたる。
空襲により壊滅的な打撃を受ける。直ちに復興に着手。
活版の文選(昭和20 年代)
大蔵省印刷局より日本銀行券(紙幣)の印刷を引き受ける。
ビニール印刷と金属チューブの製造・印刷を開始。東芝機械と共同で開発した8色グラビア輪転機を導入、多色グラビア印刷のパイオニアとなる。
印刷技術を応用した木目化粧板の実用化(1956 年)に続き、金属化粧板の実用化にも成功。
電子製版システム「PDIカラースキャナー」を導入。東証第1部に上場。関西地区の商業印刷工場として、大阪に近畿共同印刷(現 共同印刷西日本)を設立。
金属チューブ印刷工場として小田原工場を開設。日産10万本という西独ヘルラン社製全自動チューブ製造ラインを設置して、印刷企業として最大の生産能力を持つ。
アートレリーフ(高級立体複製画=特許)を開発。名古屋営業所開設。
日本万国博覧会に出展(1970 年)
金属容器の製造・印刷工場として、埼玉県に越谷工場を開設。
建材用化粧板の専門工場として、茨城県に常磐共同印刷(株)を設立。
企画制作部門を統合して、企画から制作までを一貫して行うセールスプロモーションセンターを設置。
小田原工場にラミネートチューブ製造ラインを導入、稼働開始。
ビジネスフォーム・証券・カード製造の専門工場として、埼玉県に鶴ヶ島工場を開設。
印刷機用ロボット(パレタイジングロボット)を開発。工場内への装備とともに外部への販売を開始。
グラビア製版法OHG《オフセット・ヘリオ・グラビア》(カーボンティッシュを使わないエレクトロニクス彫刻式)を開発。
鉄道用プリペイドカードの製造を開始。
紙器・軟包装材の製造・印刷工場として、茨城県に守谷工場を開設。
鶴ヶ島第二工場を増設。
ラミネートチューブ製造工場として、和歌山県に和歌山工場を開設。
出版・商業印刷の専門工場として、茨城県に五霞工場を開設。
データプリンター(川島ソリューションセンター)
ICカード事業本部を新設。情報処理加工への対応強化のため、埼玉県に川島工場(現 川島ソリューションセンター)を開設。
川島工場(現 川島ソリューションセンター)がISMSの認証を取得。五霞工場、第1回印刷産業環境優良工場表彰にて「経済産業大臣賞」受賞。
共同印刷グループ「企業行動憲章」と「倫理綱領」を制定。
CSR推進部を設置。京都工場 竣工。
デジタル撮影スタジオ「播磨坂スタジオ」オープン。
本社事業所、地球温暖化対策で東京都から表彰。
守谷工場に医薬・産業資材棟(現 守谷第二工場)開設。
当グループ西日本エリアの拠点、営製一体の共同印刷西日本(株)設立。
中国・アジア地域の営業活動拠点として、中華人民共和国に共印商貿(上海)有限公司を設立。
機能性チューブ製造拡大のため、神奈川県に相模原工場を開設。東南アジア市場におけるラミネートチューブ製造を中心とした事業拡大のため、ベトナム社会主義共和国にKYODO PRINTING(VIETNAM)CO.LTD. を設立。
日本製紙(株)との合弁事業会社、共同NPIパッケージ(株)設立。インドネシア共和国のPT Arisu Graphic Primaを子会社化。創業120周年を迎える。
創業120周年を機に、コーポレートブランド「TOMOWEL(トモウェル)」を導入。
共同日本写真印刷(株)を子会社化。(株)クレハからブローボトル事業を継承し、共同クレハブローボトル(株)を設立。