1933年
九州出張所(後に福岡支店、現九州支店)を開設
1933年
本店を「大阪市東区高麗橋5丁目10番地」に移転
1933年
酵母菓子「ビスコ」発売。日本で最初の豆文広告が登場。
1933年
朝鮮に昭和麒麟麦酒株式会社設立(1945年事業譲渡)
1933年
観音寺工場(~2008)・丸亀工場誕生
1933年
東洋高圧工業設立 三井鉱山化学事業の合成アンモニア・化学肥料などの事業をさらに拡大するため、 東洋高圧工業を設立、集約一元化した。
1933年
「京都薬用植物園」※開設 世界各地から薬用・有用植物を収集・活用し、現在、104種の絶滅危惧種を含む2,882種を超える植物を保有している。※開設時の名称は「京都武田薬草園」。1945年に「京都試験農園」と改名し、1994年から現在の名称となった。
1933年
東京都大田区に東京工場を新設(現在の東京事業所)
1933年
自社開発・生産の 「さくらレントゲンフィルム」発売1896年、X線器械を国内で初めて輸入しました。これはドイツの物理学者レントゲンによってX線が発見された翌年という非常に早い時期のことで、X線機械の輸入によって日本の医学界に貢献したいと願ってのことです。そして37年後の1933年、それまで輸入品が当たり前とされていたX線フィルムで、海外製品と比べても遜色ない「さくらレントゲンフィルム」を開発・生産し、販売を開始しました。
1933年
自社開発・生産の「さくらレントゲンフィルム」発売1896年、X線器械を国内で初めて輸入しました。これはドイツの物理学者レントゲンによってX線が発見された翌年という非常に早い時期のことで、X線機械の輸入によって日本の医学界に貢献したいと願ってのことです。そして37年後の1933年、それまで輸入品が当たり前とされていたX線フィルムで、海外製品と比べても遜色ない「さくらレントゲンフィルム」を開発・生産し、販売を開始しました。
1933年
「資生堂月報」に代わって「資生堂グラフ」創刊(~1937)
1933年
「家庭洗濯相談所」を開設(ライオン石鹸(株))
1933年
パンクに強い「ゴールデンプライタイヤ」発売
1933年
創立25周年を記念し、財団法人旭化学工業奨励会(現旭硝子財団)を設立
1933年
アンモニア法による苛性ソーダの生産を開始
1933年
東京市本所菊川において「加藤発條製作所」を創業。従業員5名。加藤三郎、22歳。
1933年
国産第1号機のナックルジョイントプレス完成
1933年
国産初のノーヒューズ遮断器15~35A発売
1933年
立石一真が大阪市都島区東野田に「立石電機製作所」を創業。
1933年
「レントゲン写真撮影用タイマ」の製造を開始(創業年月日 1933年5月10日)。
1933年
三十三間堂に自動火災報知機を設置(国宝として初めて)。
1933年
門真に本店・工場を建設 事業部制を実施 モートルの開発、生産を開始
1933年
わが国初のテレビジョン放送機製作、浜松高等工業学校に納品
1933年
航空計器、流量・温度・圧力等の自動調整装置の研究・製造を開始
1933年
資本金50万円で株式会社に改組し、スタンレー電気株式会社に商号変更
1933年
日本産業株式会社と戸畑鋳物株式会社の出資により、神奈川県横浜市に自動車製造株式会社を設立。鮎川義介が代表取締役社長に就任。
1933年
石川島自動車製作所、「ダット自動車製造(株)」を合併し、「自動車工業(株)」と改称
1933年
挙母工場用地の斡旋を中村寿一挙母町長に依頼
1933年
豊田自動織機自動車部、1933年型シボレーを購入し、構造・材料研究に着手
1933年
航空写真機用NIKKORレンズ 「Aero-NIKKOR」納入 現存する「Aero-NIKKOR 50cm F4.8」。
1933年
東京市板橋区志村本蓮沼町180番地(現在地)に本社工場を完成し移転
1933年
トーコートランシット、トーコーYレベル 民需品としてトランシット五吋、四吋、三吋半、二吋及びYレベル一八吋、一五吋、一二吋を発売
1933年
東京麻布六本木に高級小型写真機の研究を目的とする精機光学研究所を開設
1933年
東京日本橋店、新築開店 (日本橋区日本橋通)
1933年
藤本ビルブローカー証券(株)に商号変更
1933年
湘南電気鉄道(株)と相互に電車直通運転開始(品川~浦賀間)
1933年
大阪ガスビルディング竣工(現在の南館)
1933年
松竹少女歌劇部解消、松竹少女歌劇団(SSK)創設