1958年
ベーリング海でのフィッシュミール工船漁業再開
1958年
昭和工業株式会社として、東京都世田谷区に設立
1958年
秋田県・申川油田発見(1959年生産開始、現在も生産操業中)
1958年
大型ポンプ式浚渫船「安芸」(当時東洋随一)建造、大型船の先鞭をつける。
1958年
旭硝子(株)との共同出資により触媒化成工業(株)を設立
1958年
横浜工場にニューマチックシステムを導入
1958年
缶入り「アサヒゴールド」発売のポスター
1958年
日本初の缶容器入りビール「アサヒゴールド」を発売
1958年
小樽出張所を廃止して札幌出張所を開設。1969年5月営業所、1973年12月支店となる。(2016年10月北海道支店に改称)
1958年
創業者である三森栄一が、東京・池袋(現在の池袋東口店)に、「大戸屋食堂」を開店したことに始まる。「全品50円均一」というユニークな経営を行い、連日千人を越すお客様の支持を受け、「50円食堂」という愛称で親しまれる。
1958年
日本コンソメ(株)(現、クノール食品(株))設立
1958年
ユニオンケミカルズ社(現、フィリピン味の素社)設立
1958年
ポリボトル容器入り「キユーピー マヨネーズ」発売 赤い網目模様の「キユーピー マヨネーズ」の登場
1958年
アルミチューブの100g入りケチャップ発売
1958年
瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(「チキンラーメン」)を開発する。
1958年
本店を大阪市中央区に移転、日清食品株式会社に商号変更。
1958年
日本高分子管株式会社設立(1986年、日本高分子株式会社に社名変更)(2010年、日清紡メカトロニクス株式会社に吸収合併)
1958年
東急スカイライン 竣工 業界初の分譲集合住宅を竣工
1958年
株式会社ヨーカ堂設立(現(株)イトーヨーカ堂)
1958年
合資会社明治商会を解散し、明治電機工業株式会社を資本金500万円で設立。
1958年
英国ICI社とポリエステルに関する技術提携契約
1958年
ポリエステル繊維 テトロン®の生産開始
1958年
川田工業株式会社、栃木工場(栃木県大田原市)操業
1958年
新潟工場、パルプ工場、新潟支社の三事業所を統合、新たに新潟工場と称す
1958年
川内工場、3号抄紙機(クラフト紙)稼動
1958年
川内工場、3号抄紙機(クラフト紙)稼動
1958年
川内工場、3号抄紙機(クラフト紙)稼動
1958年
愛媛工場においてエチレンおよび誘導品の生産を開始し石油化学部門へ進出。
1958年
本社を東京都千代田区大手町 大手町ビルに移転
1958年
旧セントラル硝子株式会社を設立し、ガラス事業に進出
1958年
群馬化学(株)を設立(1973年10月当社に合併し、渋川工場とする)
1958年
「映画用炭素電極棒製造工程の機械化」で「第4回大河内記念生産賞」を受賞
1958年
溶解アセチレン及びその原材料の販売の目的をもって、中部ガス産業株式会社(資本金300万円)を静岡市に設立
1958年
日本初の石油化学コンビナートが岩国で完成
1958年
三井石油化学工業の岩国第1期計画として、年産2万tの日本初のエチレンプラントが操業を開始。 石油化学製品の国産化の時代のはじまりである。岩国では、その後第2~3期計画の建設を完成させ、多くの誘導品を自前で生産した。
1958年
本社を東京都中央区京橋1丁目1番地に移転。
1958年
本社を関目工場に移し、関目工場を本社に統合する。
1958年
堺工場で、たばこフィルター用アセテート・トウの製造を開始
1958年
合わせガラス用中間膜「S-LECフィルム」の製造開始、翌年に事業化
1958年
アミノアルキド樹脂塗料「アイラック」発売
1958年
レジンペーパー(メラミン樹脂含浸紙)「アイシート」発売
1958年
新たに医療用医薬品発売を契機として商号を参天製薬株式会社と変更
1958年
戦後初の海外拠点として香港出張所を開設
1958年
当社初の劇場長編アニメ作品「白蛇伝」完成。
1958年
ブラジルに現地法人Fuji Photo Film do Brasil Ltda.を設立
1958年
プラネタリウム一号機完成、科学博覧会で公開実演星好きだった田嶋一雄は、当時日本で最初に導入されたプラネタリウムに通ううち、自社でも作りたいとの思いを深めていきます。カメラレンズの開発で培った光学技術を活かし、街の発明家・信岡正典氏らの協力を得てプラネタリウム開発を続けていました。 これが実を結び、1958年に一号機が完成。兵庫県の遊園地・阪神パークで開催された科学博覧会で公開実演され、3か月で20万人を超える多くの観客を集めました。
1958年
プラネタリウム一号機完成、科学博覧会で公開実演田嶋一雄は、欧州視察時にドイツで見たプラネタリウムを自社で作りたいとの思いから、カメラレンズの開発で培った光学技術を活かし、街の発明家・信岡正典氏らの協力を得てプラネタリウム開発を続けていました。 これが実を結び、1958年に一号機が完成。兵庫県の遊園地・阪神パークで開催された科学博覧会で公開実演され、3か月で20万人を超える多くの観客を集めました。
1958年
フィリピンマニラ市にて海外事業の第一歩となる技術提携会社TANCHOCORPORATIONが稼働
1958年
各種印刷物の製造・販売業の日本印刷工業株式会社の株式を取得。(現・連結子会社)
1958年
シリコーンゴムガラスクロス、ガラスチューブ製造設備増設
1958年
ノリタケ研削砥石販売(株)設立(現 (株)ゼンノリタケ)
1958年
ノリタケオーストラリア(NORITAKE (AUSTRALIA) PTY. LIMITED)設立(食器販売)
1958年
プラスチック製品生産開始(茅ヶ崎工場)
1958年
銅軸入りワイドレンジプラグ発売、自動車業界の先駆となる
1958年
東京タワーのテレビジョンアンテナ部に当社製高張力鋼使用
1958年
清水工場の窯業・硫酸アルミ部門が独立、「日軽化工(株)」(現・化成品事業部)を設立
1958年
東京熱処理工業(株)を子会社化、熱処理事業を開始
1958年
現代表取締役 金子真也の父、金子鍾圭が福井県鯖江市に「金子眼鏡商会」を創業
1958年
微量要素肥料「F・T・E」の生産を開始
1958年
植物に必要な6つの微量要素をガラス化し、安全で使いやすく、肥料の効果が持続する環境に優しい肥料
1958年
東京都中央区八重洲に東京営業所を開設(東京事務所を廃止)
1958年
「ポリバス」(FRP浴槽)を製造開始(INAX)「ポリバス」(FRP浴槽)
1958年
大同発条株式会社と合併、ばね川崎工場とする。
1958年
ごみ焼却プラントや水処理プラント等の環境設備部門へ進出
1958年
ベストセラー製品の立フライス盤Kシリーズを開発
1958年
工場(呉工場)を呉市広町に新設し、阿賀工場の切断砥石部門を移転
1958年
機械工具 携帯式磁気応用ボール盤「アトラBL型」を発売
1958年
世界初の流体継手を採用した機械式ショベルU106を発売
1958年
国産最大(当時)の大型機械式ショベルU23を開発
1958年
世界初の流体継手を採用した機械式ショベルU106を発売
1958年
強制弁式高速動力噴霧機「ホープ」を開発
1958年
荏原グリスハイム(現・荏原電産の前身)を設立
1958年
ヒートポンプ式パッケージエアコンを開発
1958年
メンテナンス・サービスを展開 水処理装置の安全運転およびアフターサービスの拡充を図るためメンテナンスサービスの専門組織を設置。
1958年
大形チェーン減速機を開発(精機事業に進出)
1958年
法人組織に改組。木村鉛鉄化学機械株式会社と改称。資本金1億5千万円となる。
1958年
トヨタ自動車工業・本社工場にエンジンテスト用コンベヤを納入。以後、エンジンテストの流れがオートメーション化された。
1958年
「天野特殊機械下請協力会(現アマノ天協会)」発足
1958年
アイスクリームストッカー、冷凍・冷蔵ショーケースの生産開始
1958年
フーバー社と長期輸出販売・技術提携の契約締結
1958年
ボールねじの量産とボールねじ式マニュアルステアリング(1959 いすずエルフに搭載)
1958年
光洋精工株式会社(現株式会社ジェイテクト)国分工場にリンドバーグ事業部設立
1958年
6石トランジスタ超小型ポータブルラジオを完成。
1958年
浄水場にわが国初の電子式計装システムを納入
1958年
国鉄「こだま」型特急電車用主電動機、制御装置完成
1958年
DCサーボモータ(ミナーシャモータ)を発明
1958年
国産第一号の携帯用電気カンナ 1000を発売
1958年
フェライトマグネットを採用した軽量、高性能小型マグネットモーター(Fタイプ)を開発。これにより、モーターを動力とした模型飛行機の初飛行に成功する。
1958年
増加する需要に応える管理体制確立のため馬渕工業株式会社を設立し、前出、東京科学工業株式会社と日本科工株式会社との営業を引き継ぎ両社を解散する。
1958年
石塚電子株式会社を資本金500千円で、
1958年
東京都江戸川区に設立し、「バリスタ」の製造を開始
1958年
工業用操作スイッチ、表示灯、端子台などの生産、販売開始
1958年
群馬県高崎市に情報処理機器の工場として高崎工場開設
1958年
シャープ電機株式会社が、蛍光灯器具販売の早川電業株式会社を吸収合併
1958年
シャープ商事と専売代理店であるQRK商会を統合し、大阪シャープ販売株式会社を設立(以降、地区販売会社の設立に着手)
1958年
シャープフレンドショップ制度が発足。またシャープフレンドショップ会を各地で結成
1958年
世界初の有線式リモートコントロール14形白黒テレビ 「ワイテオマスター」14T‐800Mを発売
1958年
東京通信工業株式会社からソニー株式会社へ社名変更
1958年
電子化学材料の開発製造専門工場としてタムラ化研株式会社を設立(埼玉県入間市)(2010年4月、当社へ吸収合併)
1958年
愛知県名古屋市に名古屋出張所(現・名古屋支店)を開設
1958年
FANUC NCの商用1号機を(株)牧野フライス製作所へ納入
1958年
初めての半導体製品CdSセルの開発 初めての大量生産スタート
1958年
タングステンカーバイド金型(ノッチング型)を開発
1958年
榛名工場を開設(群馬県群馬郡榛名町、現・高崎市)
1958年
長野県上伊那郡箕輪町に箕輪工場を設置する
1958年
三菱原子力工業を設立(三菱グループ25社出資)
1958年
世界初の10万トン級タンカー「ユニバース・アポロ」就航。
1958年
ブラジルにトヨタ・ド・ブラジル有限持株会社(ブラジル・トヨタ社)設立
1958年
日本初の前輪2軸のキャブオーバー型10tトラック発売
1958年
東都製鋼、豊橋製鋼所(現 豊橋製造所)開設
1958年
鉱山用機器の設計・販売会社日本鉱機(株)を設立
1958年
第二次世界大戦後日本初のジェット機T-1練習機を開発し初飛行に成功する。
1958年
アメリカ・第8回カタリナグランプリレースに国際レース初出場で6位入賞
1958年
メキシコに日本楽器製造(株)の海外現地法人Yamaha De Mexico S.A.de C.V.を設立し、当社製品の販売を開始
1958年
世界で初めてゲルマニウムペレット厚さ自動選別機を開発
1958年
コンタクトスクリーンの量産に成功(国内初)
1958年
TVカメラ用フィールドズームレンズ発売
1958年
東京都練馬区に印刷、製袋工場を開設し、折込広告分野に進出。
1958年
カラーテレビ用部材のシャドウマスクの試作に成功(日本初)
1958年
インシュレーションボード(IB)の生産開始
1958年
メキシコに販売子会社ヤマハ・デ・メヒコを設立
1958年
ステンレス流し台が日本住宅公団(現都市再生機構)の指定を受ける
1958年
第一物産、日本レミントン・ユニバック(後の日本ユニシス、現:BIPROGY)設立。
1958年
日本レミントン・ユニバック(株)(現BIPROGY(株))設立
1958年
(株)利興商会を菱電商事(株)に商号変更。資本金3,000万円
1958年
フランクフルトに、子会社として現地法人Far East Mercantile GmbHを設立。
1958年
本社を大阪市北区梅田に移転(本社移転に伴い大阪営業所を本社に吸収)
1958年
有機部門を新設し、本格的に有機薬品類の販売を開始
1958年
長野県長野市篠ノ井で個人商店 「洋服の青木」を創業
1958年
「株式会社丸糸商店」を繊維製品卸小売業の「株式会社丸糸商店」と質・金融業の「株式会社丸糸」に分離
1958年
旧・東京建物本社ビル新館増築工事竣工、戦後のビル事業を本格化
1958年
マイクロ無線装置使用開始(本社~杉戸・新栃木間)
1958年
京急興業(株)(現京急不動産(株))設立
1958年
初代ビスタカー(世界初2階建て電車)運転開始(上本町~宇治山田間)
1958年
ニューヨーク 初代駐在員を派遣 アメリカのREA社と提携の2年後、同社のデスクを借りてスタート。航空・海運貨物、海外引越、旅行などのアメリカ側代理店の品質チェックを行っていた。
1958年
晴海埠頭に当社初の多階建倉庫を独自設計により竣工
1958年
テレビジョン放送局(無線局)予備免許交付される。
1958年
テレビジョン放送局(無線局)免許交付される。
1958年
テレビジョン放送開始。呼出符号JODR-TVCH.5中継局 54局(現在)
1958年
「日本絵巻物全集」(全25巻)、「図説世界文化史大系」(全24巻)発刊。
1958年
電力の広域運営体制発足。西地域電力協議会が発足。
1958年
当社初の大容量火力発電所、八戸火力発電所1号機(75,000kW)運転開始
1958年
わが国初の太陽電池採用によるVHF無線中継局設置(信夫山山頂)
1958年
港明製造所(旧港明工場)操業開始、それに伴い翌年4月桜田製造所廃止
1958年
財団法人松竹大谷図書館開館 株式会社松竹新演芸設立 新宿松竹会館(現 新宿ピカデリー)開業
1958年
「無法松の一生」ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞
1958年
「駅前旅館」公開(「駅前」シリーズ第1作)
1958年
日本劇場で第1回「ウェスタン・カーニバル」開幕
1958年
卸売部門を独立し、大豊産業株式会社設立
1958年
父のあとを引き継いだ松田瑞穂が牛丼屋の企業化を目指し、資本金100万円で株式会社吉野家を設立(12月27日)。