1940年
販売専門の「代田保護菌普及会」が各地に誕生
1940年
極東煉乳、商号を『明治乳業株式会社』と変更
1940年
社長「今井五介」ニューヨーク、サンフランシスコ万国博覧会協会長ならびに日本中央蚕糸会米国絹業視察団長として渡米
1940年
犬山工場(愛知県犬山市)操業開始、化繊原料パルプを生産
1940年
東亜実業株式会社設立(1990年、ニッシン・トーア株式会社に社名変更)(2016年、ニッシントーア・岩尾株式会社に社名変更)
1940年
武蔵野鉄道(現 西武鉄道)が武蔵野デパート設立(後(株)西武百貨店)
1940年
社名を「揖斐川電気工業株式会社」に変更
1940年
西平発電所竣工、認可出力 11200kW
1940年
「花王石鹸株式会社長瀬商会」と株式会社鐵興社(現・東北東ソー化学)の両者折半出資により日本有機株式会社設立
1940年
厳しい材料統制により、独自の水性グラビアインキを開発
1940年
グラビアインキでは、溶剤として安価な航空機用ガソリン類が使用されていましたが、戦渦の中にあった当時の日本では揮発油の統制が厳しく、代用品としての水性インキの開発が急務となりました。
1940年
国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」発表1929年の初の自社生産フィルム「さくらフィルム」発売から11年後、1940年ついに国産初のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」を発表しました。そして翌1941年に「さくら天然色フィルム」は18枚撮り10円で発売されました。
1940年
「ポーラ化成工業株式会社」設立(法人化)
1940年
製剤部門を分離、小林製薬株式会社を設立
1940年
富国セメント株式会社を合併(現・栃木工場)
1940年
合名会社大阪トタン板製造所を買収し、亜鉛めっき鋼板の一貫生産体制を確立。
1940年
製鋼部門が分離独立し豊田製鋼株式会社設立(現 東海市)
1940年
傍系会社、明光重工業(株)を合併し、加賀屋工場とする。
1940年
蒲原工場(現・蒲原製造所)でアルミ製錬の操業を開始
1940年
特殊軽合金(株)稲沢工場(現・名古屋工場)の操業を開始
1940年
航空機エンジンの弁ばね用ピアノ線の国産化に成功
1940年
組織を有限会社第一製砥所に変更し、本社を東京都神田に移転
1940年
製鋼部を分離独立し、豊田製鋼株式会社(現愛知製鋼株式会社)を設立。
1940年
長野県岡谷市に工場を新設。(現 長野工場)
1940年
外資排除により東京芝浦電気株式会社(現(株)東芝)が買収、同社大仁工場となる
1940年
川﨑電気株式会社設立(資本金10万円)川﨑勇が初代代表取締役社長に就任
1940年
ラジオのμ同調用にフェライトコアを大量受注
1940年
東京都荏原区小山町2丁目168番地に向山一人個人により興亜工業社を創立し固定抵抗器の製造を開始する
1940年
三菱石油、日本化成工業、東京鋼材は三菱社の分系会社となる
1940年
天津工場を分離し、北支自動車工業を設立
1940年
豊田自動織機、製鋼部を独立させ豊田製鋼(株)(現愛知製鋼(株))を設立
1940年
販売店と共同出資で、平塚自動車部品製作所を設立
1940年
販売店代表者を挙母工場に招待し、「新日本号」を発表
1940年
株式会社に改組、商号を「株式会社島野鉄工所」に変更
1940年
分離独立して株式会社三谷商店設立、化学品の販売開始
1940年
参急 養老電鉄㈱(桑名~揖斐間)を合併
1940年
山﨑種二、辰巳倉庫株式会社の経営権を取得
1940年
新橋演舞場直営開場、曾我廼家五郎劇で第一回興行 映音研究所スタジオを買収、松竹太秦撮影所に改称