1948年
高松支店(1964年4月四国支店に改称)開設
1948年
住友本社の解体に伴い、同社の林業所を分割し、新会社6社(四国林業、九州農林、北海農林、扶桑林業、兵庫林業、東海農林、各株式会社)を設立。
1948年
扶桑林業、兵庫林業、東海農林の3社を合併し、新たに扶桑農林株式会社を設立。
1948年
株式会社設立 社名を「株式会社ライト防水工業所」とし、本社を仙台市に置く
1948年
津市高茶屋にビスケット工場(津工場)竣工、農林省指定乾パン工場となる
1948年
創業者飯島藤十郎により千葉県市川市に山崎製パン所を開業、パンの委託加工を開始
1948年
山崎製パン株式会社を資本金百万円をもって千葉県市川市に設立
1948年
託加工時代、好評を博したコッペパンとロシアパン
1948年
竹岸畜産工業株式会社(資本金100万円)を富山県高岡市において設立。
1948年
1943年頃から製造を休止していた「キユーピー マヨネーズ」の製造を再開
1948年
事業目的に缶詰、肥料、飼料及び油脂の製造・売買、輸出入並びに水産物の輸出入を追加。
1948年
魚介類の加工及び販売、紡績その他繊維工業、洋品雑貨の販売、図書の出版及び販売を目的として株式会社中交総社(資本金500万円)を設立、本店を泉大津市汐見町に置く。
1948年
犬山工場、パルプ廃液から酵母生産の試験を開始、バイオ事業の萌芽
1948年
「山陽レース」(現「倉敷繊維加工」)設立
1948年
法人組織とし、伊勢化学工業株式会社を設立
1948年
世界初の肥料用尿素大量生産開始(北海道)
1948年
東洋高圧工業は尿素の企業化成功で急成長。 戦後、食料確保のために必要とされた肥料用尿素の大量生産としては、世界初だった。
1948年
協和産業(株)(後の協和発酵工業(株))が、日本で初めて、発酵法により糖蜜からアセトン・ブタノールの量産を開始
1948年
奈良工場開設(~1957年)、日本初のプラスチック自動射出成形事業を開始
1948年
大阪工場開設(~1971年)、ポリビニルアルコール(PVA)、醋酸鉛の製造開始
1948年
新川工場でユリア樹脂塗料「ユーラッカー」生産開始・発売
1948年
製紙新1号抄紙機完成。仙貨紙、パルプ紙など生産開始
1948年
日本動画株式会社として東京都新宿区原町に設立、アニメ製作を開始。
1948年
医薬品の製造及び販売を目的として、大阪市旭区に澤井製薬株式会社(現沢井製薬株式会社)を資本金195千円で設立。
1948年
日本で初めてのフッ素入ハミガキ『ライオンFクリーム』を発売((株)小林商店)
1948年
販売会社として高砂香料株式会社を設立。
1948年
東京都北区豊島七丁目に株式会社小林コーセーを設立
1948年
電気炉及び反射炉を新設し、鋳鋼品・ロールの製造を開始。
1948年
株式会社 大紀アルミニウム工業所(大阪市浪速区)を設立。
1948年
ボーキサイト輸入再開により清水工場・蒲原工場の生産を開始
1948年
アルミ二次合金メーカー「(株)大信洋行」(後の大信軽金属(株))を設立
1948年
[現本社所在地]東京都墨田区太平3丁目4番8号に営業所を開設。
1948年
奈良県大和郡山市において、繊維機械の製造・販売開始
1948年
大府工場、自動車部品用鋳鋼品の生産工場に指定。
1948年
韓国へ大型定置コンプレッサ輸出。輸出の第1 号となる。
1948年
日本初のネオンランプ式水質監視計を当社の特許第1号として販売開始
1948年
「パイラー」、「スラットベヤ」の製造を開始。
1948年
高松市藤塚町に(株)多田野鉄工所を設立
1948年
高松市藤塚町に(株)多田野鉄工所を設立
1948年
内山正太郎名誉会長がエレベータの開発・製造・販売・据付・保守を目的として「富士輸送機工業株式会社」を創業
1948年
本社を名古屋市中区宮出町31番地に移転。
1948年
株式会社に改組し、資本金2百万円で日本ピラー工業(株)を設立
1948年
企業再建整備法に従い、旧日本鍛工株式会社より分離し、日鍛バルブ製造株式会社を設立
1948年
日本電気熔接機材株式会社を東京入船町 (現 新富町) に設立
1948年
東京都大田区に蒲田工場を新設、電力量計の製造を開始。
1948年
商号を「立石電機株式会社」に変更(設立年月日 1948年5月19日)。
1948年
愛知県瀬戸市において資本金100万円にて日東工業株式会社を設立コンセント、カットアウトスイッチ等の製造販売を開始
1948年
本社を東京・中野に移転、「八欧無線電機株式会社」を 「八欧無線株式会社」に改称
1948年
逓信省(現在の郵政省)のラジオ認定制度発足に対応(認定1号 5A-2 / 5NS-1) 5球3バンドオールウェーブラジオ(5A-2)の生産を開始
1948年
東京都大田区に資本金50万円をもって当社の前身である片岡電気(株)を設立
1948年
東京都中央区日本橋に南部商工株式会社を設立
1948年
株式会社広瀬商会製作所に改組本社を東京都大田区新井宿に移転
1948年
魚群探知機の開発・実用化に成功したのを機に、故古野清孝、現 常任相談役 古野清賢及び両名の父・故古野清照の出資により合資会社古野電気工業所(現 古野興産株式会社)を創立し、長崎市に本社をおき、魚群探知機の製造販売を開始
1948年
日本初の量産型補聴器(H-501)を発売
1948年
皇太子殿下(上皇陛下) ご来駕の栄を賜る
1948年
天皇陛下(昭和天皇) 、朝日新聞社講堂において当社電子顕微鏡をご高覧
1948年
堀内平八郎 東海電子研究所を設立 戦後の廃墟の中、光電への夢を胸に船出
1948年
通信機用電球・2号型ランプの 製品化に成功、富士通に納入開始 翌年、電気通信省(現・日本電信電話(株))に納入開始
1948年
ラジオ受信用真空管の製造・販売を目的として、双葉電子工業株式会社を設立(長生郡茂原町)
1948年
東京支店を設置し、真空管の販売を開始(東京・神田花田町)
1948年
名古屋市郊外西枇杷島町に「株式会社東海理化電機製作所」を設立
1948年
戦後日本初の鋼製輸出船「クヌール」(捕鯨船)が竣工
1948年
三菱信託は朝日信託銀行と改称、新たに普通銀行業務を併営(1952年、三菱信託銀行と改称)
1948年
三菱銀行は千代田銀行と改称(1953年、三菱銀行の社名に復帰)
1948年
八千代證券を設立(のちの三菱UFJモルガン・スタンレー証券)
1948年
刈谷南工場の電装品部門・挙母工場のラジエーター部門を刈谷北工場に移転(刈谷北工場は電装工場に改称)
1948年
労働組合、全日本自動車産業労働組合に加入
1948年
民生担当重役室・生産担当重役室などに分かれていた最高審議機関を重役室に一本化
1948年
財閥同族支配力排除法の適用を受ける (1951年7月10日解除)
1948年
過度経済力集中排除法の指定会社となる (1949年1月21日解除)
1948年
国内の自動車メーカー初製販分離 「日野産業株式会社」から「日野ヂーゼル工業株式会社」、「日野ヂーゼル販売株式会社」へ
1948年
不二越工場アパート内で田中製作所として創業
1948年
東京油止工業株式会社を東京オイルシール工業株式会社に社名変更。
1948年
萱場工業株式会社を設立(企業再建整備法に基づく)
1948年
本田技術研究所を継承し、静岡県浜松市(現・浜松市中区)板屋町257番地に本田技研工業株式会社を設立。
1948年
株式会社本田技術研究所 (現、本田技研工業株式会社)と取引開始。
1948年
㈱東京計器製作所を清算会社として㈱長野計器製作所と㈱東京計器製造所(現・東京計器㈱)とに分離し、本社及び工場を長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)に置き、資本金500万円にて発足
1948年
企業再建整備法に基づき、株式会社東京計器製造所 と 株式会社長野計器製作所 に分離。
1948年
小型カメラ「ニコンI型」発売 ニコンカメラの初号機で「ニコン」の名前を初めて冠した製品。発売当初は「ニコン」として売られたが、後続のカメラと区別するため、後に、製品名称に「I型」が追加された。
1948年
「万能投影機一型」発売 主に社内用としてつくられていた投影検査機を、平行光線照明法などを採用し再設計した。研究用をはじめ、さまざまな検査や測定の現場で万能ぶりを発揮したため万能投影機と称された。
1948年
国産初のレンズシャッター付き35ミリフィルムカメラ「オリンパス35I」を発売
1948年
パイロット萬年筆株式会社平塚工場を開設
1948年
商号を株式会社三光化学工作所から三光合成樹脂工業株式会社に変更。
1948年
ルーズリーフ、バインダー、各種ファイル類を生産発売
1948年
茨城県日立市でわが国で初めての製氷と給湯を行う熱ポンプ設備を完成。
1948年
豐田産業の商社部門を継承し、日新通商株式会社設立。
1948年
鮮魚介及び加工水産物の荷受機関、東都水産(株)として業務開始
1948年
日水産物の売買及び販売の受託を目的として、資本金500万円で設立。
1948年
東京都中央区築地(市場内)で営業開始。
1948年
資本金48万円にて東京都品川区に会社を創設 初代代表取締役社長に倉持正次郎
1948年
戦時統制解除に伴い、セメントの販売を再開
1948年
当社設立(資本金30万円)、医薬品販売業者として病院等に対する医薬品の卸売りを開始
1948年
集中排除法の適用を受け三井物産(株)及び姉妹諸会社との系列を解消
1948年
兵庫建材株式会社設立(資本金195,000円で神戸市中央区栄町通に設立)
1948年
輸入農薬の市場開発を開始(化学品専門商社として第一歩を踏みだす)
1948年
富士市に営業所(現・静岡営業所)を開設
1948年
大阪市浪速区日本橋筋4丁目33番地にて「上新電気商会」を創業
1948年
復興第1回「春の百選会」各店で開催(通算第69回)
1948年
株式会社日本貯蓄銀行、商号を株式会社協和銀行に変更
1948年
株式会社野村銀行、商号を株式会社大和銀行に変更
1948年
大日本無尽株式会社、日本無尽株式会社に商号変更
1948年
株式会社帝国銀行、株式会社第一銀行を分離し株式会社帝国銀行となる 株式会社住友銀行、株式会社大阪銀行に商号変更
1948年
灘店(神戸市灘区)を開設し、質屋業を開始
1948年
会社再編成に伴い百貨店業分離、東横百貨店(現:東急百貨店)を設立
1948年
京王帝都電鉄(現:京王電鉄)、小田急電鉄、京浜急行電鉄を分離
1948年
小田急電鉄(株)、京王帝都電鉄(株)とともに東京急行電鉄(株)から分離して、京浜急行電鉄株式会社創立(資本金1億円)
1948年
東京急行電鉄(株)から分離、小田急電鉄(株)設立(資本金1億円)
1948年
東京急行電鉄株式会社から分離、京王線・井の頭線とバス3営業所を含めた京王帝都電鉄株式会社設立(資本金5,000万円)
1948年
山佐運送(株)(現西鉄不動産(株))の設立
1948年
上本町~宇治山田間特急運転開始(伊勢中川~宇治山田間延長運転開始)
1948年
第二次世界大戦終戦後、港湾運送事業を総合的に再開。
1948年
創業者 大迫正冨らが別府市に後の善隣出版社を創業
1948年
東京都千代田区丸ノ内2丁目2番地に株式会社中央経済社を資本金100万円をもって設立
1948年
月刊誌「企業会計(ACCOUNTING)」を創刊
1948年
木下惠介監督、『女』をオールロケで撮影
1948年
新橋演舞場復興開場 松竹新喜劇結成、大阪の中座で第一回公演
1948年
末廣商會を株式会社に改組し、大阪市北区に株式会社富士商会設立(当社の前身)。自動車部品の卸売を開始
1948年
株式会社に改組、英和精器(株)を資本金50万円で設立。
1948年
造船所・陸上業界分野へ精密計測機器を中心に事業拡大を図る。
1948年
「株式会社鈴木謙三商店」が、個人商店「鈴木謙三商店」の営業権を譲受
1948年
「株式会社鈴木謙三商店」の本社を名古屋市東区東片端町に移転