1945年
東京急行電鉄(株)が社内に臨時戦後復興委員会を設置、東急事業団として建設会社の設立を検討
1945年
資産喪失とGHQ(連合国総司令部)の占領政策による危機
1945年
大阪工場と東京工場が空襲により全焼 終戦で国内外の工場・資産を失う
1945年
戦災により横浜工場を焼失。終戦により大連工場その他の在外資産を喪失。その後、那須疎開工場、山梨醸造工場により操業を継続
1945年
白石製糸所(現白石片倉ショッピングセンター)開設
1945年
終戦 戦災等により生産設備の7割を失う
1945年
創設者・林治平、個人経営による機械工具商、中央機械工具商会を創業
1945年
日本油脂株式会社が日本鉱業株式会社から化学部門の営業譲渡を受け、社名を日産化学工業株式会社と改称
1945年
終戦により金属マグネシウムの製造を全廃、か性ソーダを主とした無機工業薬品を製造開始
1945年
青柳工場、探照灯用カーボンの製造を中止し、映画用・医療用など一般民需用カーボン(イビガワ シネマ カーボン)の生産開始
1945年
少林寺工場(大阪府堺市)で硫酸銅の生産再開
1945年
戦災によって本社工場を焼失し、本社を吹田工場所在地(吹田市)に移転。
1945年
会社設立 資本金200万円をもって、日窒化学工業株式会社(現在の旭化成)の子会社として航空機用強化木の製造を目的とする日窒航材工業株式会社を設立
1945年
商号を旭ベニア工業株式会社を改め、フェノール樹脂成形材料、合成樹脂成型品ならびに合板の製造販売を目的とする事業に転換
1945年
日本色素製造株式会社、東京染料工業株式会社を合併。
1945年
日本鉱業(株)化学部門の営業譲渡を受け、日産化学工業(株)に社名変更
1945年
持田製薬(株)を設立し、本店所在地を東京都北区神谷におく
1945年
営業内容を明確に表示するため商号に製薬の名称を入れ参天堂製薬株式会社に変更
1945年
東京大空襲。本社屋完全焼失。青戸工場内に本社機能を移転するとともに、跡地に仮事務所を設置。
1945年
終戦。上海、京城、奉天、台北の出張所は在外資産として戦勝国に接収。
1945年
たばこ「金鵄」〔現在の「ゴールデンバット」〕の包装紙用に水性グラビアインキを使用。
1945年
終戦とともに、海外財産を喪失、引き揚げ者全員を受け入れ
1945年
横浜工場、連合軍の空襲により操業不能に。写真は被災した横浜工場
1945年
東洋紡績(株)(現、東洋紡(株))がゴム工業発展のために設立し、強化育成した東洋ゴム化工(株)、および(株)平野護謨製造所が合併、東洋ゴム工業(株)設立
1945年
国鉄、各私鉄の軌道用品製作ならびに修理事業に転換。
1945年
商号を同和鉱業株式会社に変更 【設立】
1945年
東京大空襲に被災(3月)したため、工場復旧疎開命令により、現本店所在地の富山県高岡市に移転し、本社工場とする。
1945年
トイレ・洗面器(衛生陶器)を製造開始(INAX)
1945年
日染興業株式会社(資本金75 万円)を吸収合併
1945年
平田工業株式会社が、本社を東京都足立区に移転
1945年
戦災により工場が焼失するも2ヶ月後には復旧、操業再開
1945年
本店および工場等の全設備を福岡県糟屋郡古賀町に移転。
1945年
戦災により本社および主要工場の大半を焼失。
1945年
事業目的:電気機械器具の製造、修理、販売
1945年
「横浜機器株式会社」を設立し、タイムレコーダーの製造を再開
1945年
山田興業(株)と改称、事務器の生産を開始し、マックスの基礎を築く。
1945年
民需に転換し、各種ピストンリング、シリンダスリーブ、シリンダライナ、グリッド、抵抗器、一般鋳物等を製造。
1945年
航空機用中空エンジンバルブ増産のため秦野工場建設、製造を開始
1945年
第二次世界大戦終戦。業界のトップを切って生産を再開
1945年
本社・東京工場を東京都豊島区巣鴨(現・北大塚)に移転
1945年
終戦により平和産業への転換を図り、竹田産業株式会社に商号変更
1945年
工場疎開を兼ねて安城市住吉町の現在地に移転
1945年
本社を山形県南陽市に移転(戦時疎開)、配電制御設備の製造を開始する
1945年
和泉商会創業 電気機器の小売、卸売業開始
1945年
京都市下京区(現・南区)に京都工場を開設(1947年売却)
1945年
3月の東京大空襲で蔵前工場と向島工場が焼失、東京・中野に新工場を建設し、操業を開始
1945年
大阪市大淀区の此花商業学校校舎を買収して大淀工場とする。
1945年
連合国総司令部(GHQ)は三菱など財閥の調査を行う
1945年
三菱本社はGHQの方針に応じ自発的解散を決定
1945年
日本政府に対するGHQ覚書が発表され、三菱、三井、住友、安田などの財閥会社の解体と経済界再編の基本方針を示す
1945年
石川島重工業株式会社に商号変更。日本初のジェットエンジン「ネ-20」を製作。
1945年
株式会社播磨造船所、呉海軍工廠跡に呉船渠開設。
1945年
川崎製造所「TX40型」ガソリントラック、鶴見製造所「TU 80型」6輪トラックの生産を再開
1945年
トヨタ車体工業(株)(現 トヨタ車体(株))を設立
1945年
消費組合互助会(現 トヨタ生活協同組合)を設立
1945年
「東新航空機」を設立、のちに「新川産業」に社名変更。 「東海飛行機」が「愛知工業」に社名変更。
1945年
戦災による被害甚しく、本社工場を閉鎖。事務所を高塚分工場内に移転。
1945年
終戦により工場を一時閉鎖の後、民需品転換の許可を受け工場を再開。双眼鏡の生産に主力をおき、その大部分を米国に輸出して日本の双眼鏡が米国市場を独占する下地を作った。さらに測量機を生産し戦後の国土の復興と開発に貢献
1945年
フォーカルプレーンシャッターカメラ「普及型(J II)」の生産再開
1945年
大蔵省(現 財務省)募集の日本銀行券新図案に応募の全券種入選(1000円、500円、100円、10円、5円、1円)
1945年
空襲により壊滅的な打撃を受ける。直ちに復興に着手。
1945年
新たに商事部門への進出を図り、また占領下の財閥商号禁止令の規定もあり商号を日本建設産業株式会社に変更し、商事会社として発足する。
1945年
終戦により外地における権益を一切喪失。
1945年
岩谷産業株式会社を設立 創業者 岩谷直治が社長に就任
1945年
事業目的の取扱品目に織物・編物その他繊維加工品及び雑貨を追加
1945年
空襲により本社社屋全焼 本社を東京に移転(大田区田園調布)
1945年
東京店、戦災 空襲により別館など一部焼失するも本館は無事
1945年
大阪店、戦災 空襲により大食堂街は全焼するも本館は無事
1945年
GHQによりPXとして銀座店、伊勢佐木町横浜店の一部を接収、吉田橋横浜店全館接収
1945年
9貯蓄銀行の合併により株式会社日本貯蓄銀行設立
1945年
株式会社住友銀行、株式会社阪南銀行と株式会社池田実業銀行を合併 株式会社神戸銀行、信託業務の兼営を開始
1945年
「八重洲ビル」(1928年3月竣工、1962年「丸ノ内八重洲ビル」と改称)並びに同敷地を三菱本社より現物出資を受け当社所有となる
1945年
(当社)横浜~海老名間、相模国分~厚木間の鉄道経営を東京急行電鉄(株)に委託
1945年
交野電気鉄道(株)の事業を譲受、交野線と呼称
1945年
終戦、所有船舶37隻、15万5469総トンに減少(戦禍による喪失船185隻、113万1424総トン)
1945年
国文学研究者であった角川源義が出版社を興す。出版第1号は「歌集歩道」(佐藤佐太郎)。
1945年
歌舞伎座、新橋演舞場が空襲で焼失 松竹少女歌劇団を松竹歌劇団(SKD)に改称
1945年
戦後初の企画作品『そよかぜ』(監督‧佐々木康)公開、主題歌「リンゴの唄」大流行
1945年
(株)梅田映画劇場および(株)南街映画劇場を合併
1945年
兵庫県西宮市において、飲料水卸売業加藤商店を創業